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  • Writer's pictureTomizo Jinno

情報を提示し「判断」は任せる映像シナリオ

映像は人を啓蒙するにはとても効果的な手段です

シナリオというストーリーで、映像という「エビデンス有り気な真実っぽい事実」で視聴者を追い込み「信じ込ませる」という、悪辣なことができるのが映像の怖いところです。


情報がない!?

いろんな非常事態、緊急事態がおこおり、人はそれに巻き込まれると、当所、事態の全容も、ことの仔細も見えないので「情報がない!」と不安になります。いわば突然の盲目状態にパニックになるわけですが、時間の経過とともに人伝てやメディアから様々な情報が寄せられ、時に押し寄せ、情報は溢れんばかりになります。

ところが、渦中にある人の中には、それでも「情報が欲しい!」と言い続ける人が居ます。どうみてもその人の周辺にはすでに十分な情報がもたらされているのに、「情報がない」と言い募る人の多くは、情報がないのではなく、情報が多すぎて「判断ができない」「判断を教えてくれ」と言っているのです。


「判断」は言わない

啓蒙映像のシナリオでは、実は「判断」まで言及してしまうのは愚かな方法です。なぜなら、判断を言ってしまったら、その視聴者は自分で判断しないからです。これは道理なのですが、人は自分で判断したことは確信を持ってそれに従いますが、他人にしてもらった判断は、どこかに穴が空いていないかいつも不安で、確信を持った行動がとれないものです。

ですから、啓蒙映像のシナリオは、理詰めで追い込みはしますが、結論(判断)は視聴者に任せるカタチをとります。あくまでカタチであって、誰が見てもそう判断するしかないように仕組みます。


判断は自分でするもの

ところで、人に判断してもらうことに慣れきった人は、その結果少しでも不利な状況に至った時には、その判断を「押し付けた人」を糾弾することで、その事態にオチを付けます。オチがついたところで、その人は救われないのですが、そういう人はそういう不幸なオチを積み重ね、いつも自分に都合の良い判断を言ってくれる人を探し続けます。

自分にいつも正しい判断を与えてくれる人など、永遠に現れるわけがないのも、これも道理。道理には早く気づいた方が、幸せです。



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