ほんとうに大切なことは目に見えない。

それぞれに理解している、その意味
サン=テグジュペリの星の王子様のこの一節はあまりに有名ですが、僕も青年期この言葉にいたく感銘を受けました。でも理由は漠然としていました。

 

極限状況でみえてくるもの

サン=テグジュペリは作家である前に、飛行機の草創期のような時代に航空戦に、郵便に、大空を駆け巡っていたパイロット。

航路もほとんど未開発の時代、まだレーダーもGPSもない時代に目視だけを頼りに雲の中や、夜間飛行をすることは飛行自体が冒険そのもの。何度も瀕死の重傷を負いながら、結局墜落事故で亡くなったと言われています。

「極限状況が日常」というのなかに身を置いて生きると、この一節のような世界が見えてくるのだろなと思ったことを記憶しています。

 

いまでは常識に

しかし、若い頃に僕に感銘を与えたこの言葉は、社会に30年以上揉まれてきて、いまでは僕にとっても日常的でアタリマエになりました。僕の仕事は「映像制作」。人の目にモノ・コトを見せる仕事をしていればこその境地かも知れません。

 

人は「見ていても見ていない」ものがたくさんあります。

また、「ある人には見えるのに、別な人には見えない」ものも。

同じ映像を人にを見せても、そこから受ける感情はプロフィールやパーソナリティによってまったく異なります。

 

人は自分の経験や知識、感情、つまり先入観によってモノ・コトにそれぞれ勝手に「意味」をつけています。「意味」にカタチはなく、目に見えないのに、人は「意味」が目に見えているように意識して生きています。でも、僕に見えていることは、みんなにも見えていてる。と思ったら大間違いです。

 

どうしてこうも人によって見ているもの、見えているものは違うのでしょうか。

 

認識するための意識の持ち方

まず一番に違うのは「意識」の持ち方。

事実を正しく認識したいと思っているかどうか。

パッと見て思ったまま、それを事実として認識してしまうか、そのものを四方八方から見回し、時には中を開けてトコトン見るかどうかの違い。

大概、「パッと見たまま」の認識は事実を見たのではなく、印象を捉えただけ。先入観の引き出しにあった類似例に結びつけただけです。

誤解は人を傷つけます。

より深い理解をしたい、見た目に惑わされて誤解する危険を回避したい、と思うならば絶対にものごとはよく見て、考えた上で理解するべきでしょう。。

 

裸の王様

もうひとつは、社会における「立場」かなと思います。

社会には会社や学校や地域などの、様々な組織・集団があり、経済レベルや教育レベルなども加わった「ヒエラルキー」がいまの時代も厳然と存在しています。

そして人はその階層の上であろうと下であろうと、安定した場所で生き続けると、いつの間にか自分の立っている場所からの景色しか見えない、見ないようになります。年月が長ければ長くなるほど、人は想像力を失っていくようです。

 

人と人はわかり合える?

残念ですが、この幻想が人や社会を失望させ時には諍いを生みます。

諍いを避けるには知ろうとする努力が大切です。

映像を創造する仕事を通じて、人の想像力の可能性を伝えること。

それが僕の人生に与えられた役割かなと最近思います。

 

 

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