感じる映像、感じるコミュニケーション


まるで絵葉書のよう!

まるで映画みたい!

な写真や映像なんだけど、心に響かないなあと思ったことはありませんか?

 

こういう時の自分の心を分析してみると、

  • あきらかに模倣である

  • あきらかに撮影時のカメラのプリセットモードに依存している

  • あきらかに過剰な画像処理を行っている

ということが画像から見て取れた瞬間、撮った人の心の中に「あんな写真にしてみたい」「あんな映像にしてみたい」という、自身がファインダーを通して観ているものではない、誰かの「お手本」を真似て撮ったように感じてしまうようです。

「そんな失礼な!」と反論されることは覚悟しなくてはなりません。

 

でも、その画像にあなたの心は写っていますか?

写真も映像も、人が作って人に見せるもの。つまりコミュニケーションです。伝える側、伝えられる側の感情の交流が、より深く、複雑に、豊かに育まれるのがビジュアルメディアの特性でもあります。

 

職業的バイアス

例えば、ある人にはとても素敵な画像に見える作品も、僕らのような映像を職業としている者のリテラシーフィルターを通ると、その画像を収録している時のカメラマンの考えや、画像処理している人の心の内をも見てしまうという、悲しい性(さが)が、その画像の評価を邪魔してしまうのです。もうこれはバイアスと言ってもいいかも知れません。

 

ビジュアルに対する「見方・考え方(リテラシー)」というのは、ひとりひとりの経験や感性によって千差万別。世界には人間の数だけ無限の個性(リテラシー)があるとも言えます。

 

でも「模倣」からは心情は汲み取れない

観た者の心を捉え、ある時は心に刺さり、ある時は癒す写真、映像というのはやはり、撮った人の「生の心」を映しているのではないかと思います。

「それは画像のどこに映っているのですか?」と問われれば、「僕には見えるのです」と答えるしかありませんが、それは誰もが同様にそういうものなのだと思います。その人のリテラシーがその画像から何を読み取るか、それは観る人によって違います。撮った人の思い通りに汲み取られているかどうかは、あまり問題ではないのかも知れません。

 

「感じる」ことが写真や映像の価値

これは僕だけの意見かも知れませんが、絵葉書のような写真を見て「ただ綺麗」なだけで「いいね!」と思うだけではなく、そこから自分の内面にある何か(記憶や思想)を喚起されて、心に「感じる」ものがあることが写真や映像の価値だと思います。勿論その価値は千人いれば千人が違うものです。模倣からでも感じるものがあれば、それは見た人にとって価値あることです。

 

話が散漫になってきました。

 

なにごとも、技能の習得というのは模倣をすることから始まりますから模倣を否定はしませんが、技術が習得できたなら次はあなたの正直な心を見せてほしいなあと思います。

 

余談!

書いていて気付いたのだけれど、写真も映像もコミュニケーションだけど、人と人のお付き合いも当然コミュニケーション。そのコミュニケーションを誰もが口にする定番の言葉、誰かが言っていた意見の受け売り、当たり障りのない社交辞令だけでやりすごせば世間は上手く渡れるかも知れない。

けれど、僕はやはり人間同士のコミュニケーションでも、相手が何かを「感じる」言葉を発したいと思い、いつも相手のことを想い巡らしながら言葉を選んでいる。人はなかなか心を開かない。時おり軋轢も生じてしまう。でも時おり僕の言葉に「感じて」共感し合える人と出会える。それは最高に幸せな瞬間だ。あたり障りの無いコミュニケーションからは本当の共感は生まれないと思う。

 

感じる映像づくり

だからもちろん僕がつくる映像も、大切な視聴者に「感じて」もらえることが大きな目標になっていることは言うまでもない。
 

 

 

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