映像は現代人のOSになったのか

映像なのか動画なのか
今は「映像」と言うと、静止画のことを指すと考える人もあるので、一般には「動画」と言うことが増えているけれど、僕はどうしてもドーガという言葉が「画が動いてりゃいい」と言われているようで癪に触ります。だから「映像」を「静止画」と誤解しそうな方には「ムービー」と言うことにしています。

しかし、やはりしっくりくるのは「映像」だ。動いている画像はやっぱり映像だよ。と思う。

ところで、上に「画が動いて」と書いたけれど、この「画」は「え」と読んで欲しい。えはえなんだけど、けっして「絵」ではない。絵が動くのは「アニメ」だから。

と、まあ小煩い親父の戯言で始まってしまったが、こんなことはどうでもいい話。

 

映像とは

 

1)ある視点から見える景色ないしは想像世界を一定のフレームで切り取った画像の連続。

 

2)意図のあるなしに関わらず、フレームに切り取ることは意味を産む。また画像をつなぐことも同様。だから映像は意味を発している。

 

ごく単純に言えば映像とはこういうものだ。とすればだ。

人が発する言語と同様に、人の視覚に入ってくれば、嫌でも人はその映像から何か印象やメッセージを受け取ってしまうはずである。

 

意味を発する記号としての映像

人類にとって「言葉」が、脳で思考するためのOS(オペレーションソフト)であり、個人の人格形成や社会の文化の形成の基盤であるように、映像もひとつの言語体系として人の思考を司っているのではないかと、最近思う。

 

ある実話

ある若い夫婦が子供を授かったが、お腹にいるうちに生まれてくる子供に聴覚が無い可能性があることがわかった。そこでその夫婦はふたりで手話を猛特訓して習得。出産後、家庭での夫婦の会話はすべて手話でコミュ二ケーションしていたところ、赤ちゃんが手話で話し始めたという実話があるらしい。

 

これと同様、生まれた時から映像が氾濫した世界で育っている若者たちの脳には、第2言語として映像言語?が組み込まれているのではないかという想像だ。

 

映像という言語

ただし、映像の文法というのは人間社会では未だ一定の定義を持たず、絶えず変化している。それどころか、もともと経験や主観によって千差万別な意味を発しているものだ。ただ、ゆるーいけれど、漠然とはしているけれど、誰もが共通に認識する一定の意味を発してはいるように思う。とすると映像がOS機能を果たしている可能性は、充分にあるのではないか。

 

言葉に置き換えない習慣の若者たち

なんだかSFチックな話になってしまったが、昨今の若者が目の前の事象を感覚的には捉えているが、言葉にはできない様子を見ていると、映像という第二言語が脳を支配していて、第一言語の普通の言葉に置き換えて保存することをしていないのではないかと思うのである。

 

映像作家が氾濫するわけ

第2言語(映像OS)で思考している若者たちは、特段の技能習得をしなくても映像作家として食べていけるかも・・・。いや、そうではなくて、映像をつくるという作業が特別な技能ではなく、誰でもできることになっただけのことだね、たぶん。

道理で巷には映像作家が多いわけだ。
 

 

 

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