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  • Writer's pictureTomizo Jinno

映像は人間を動物返りさせる

脳味噌のOSは言葉

人間は目や耳から入った情報を、脳で考え理解する動物です。人間社会が今のように進化してきたのは、ひとえにこの「考える」という行為を行う脳のOSとして「言葉」を手に入れたからです。言葉というこの「複雑な言語」がなければ人間の思考、コミュニケーション、そして社会は、ここまで高度にはならなかったでしょう。

このことに異論を挟む人はいないでしょう。


動物はどうやって考える?

いっぽう、人間以外の動物はまったく考えていないのかといえば、猿やイルカの行動を見ていると、学習とか応用といった情報処理作業を行なっているようではあります。つまり、目で見たり耳に聞こえたものを言葉に置き換えなくても、ある程度の思考はできるようです。

ただし、動物が行う思考は非常にシンプルな、ほぼ1対1で答えが結びつく演算で、いくらか可能な「応用」であっても、せいぜい1対3程度までであって、まして連立方程式思考は無理でしょう。(僕がもっと高度な思考をする動物を知らないだけだったらごめんなさい)

つまり動物が「繰り返し見る」「繰り返し聞く」ことで学習することは、せいぜい数種類の行動にしか結びつかないものです。


単純思考と言葉による複雑化

ですから、昨日まで説明してきた、動画による学習の問題点はこうした「思考の単純化」でもあります。

静止画でも、動画でも、それによって表現されている「事実」を言葉に置き換えられたとしても、その言葉の意味に関して共通認識を持っていなければ、コミュニケーションには齟齬が入り込みます。言葉は複雑なことを思考をするための道具ですから、とうぜんその理解、解釈は人によって個性が生じます。


画像コミュニケーションでも齟齬は入りこむ

静止画でも動画でも「画像」であれば、コミュニケーションに齟齬が生じないと考えるのは早計です。その画像や動画を「言葉で解釈」したとたんに、物事は複雑化の様相を呈し、ましてそれを他人とコミュニケーションするとなると、相手の解釈と差異によって齟齬はどんどん拡大します。


どんどん単純化する画像・動画

だから「動画によるコミュニケーション」を学習方法として取り入れる場合、解釈に差異が入り込まないような、それこそ誰が見ても同じ解釈をするような単純な人物、構図、セリフで構成、演出しなくてはなりません。伝えることはステロタイプでとても短尺な動画になるでしょう。解釈によって意味が異なる、個性が入り込む余地があってはならないのですから。

でも、世の中のことはそんなに、なんでもかんでも単純化できる事象だけで成り立っていません。


最後は言葉による統合が必要

どれだけ課題を細分化しようと、結局は最後はそれらを統合して解釈する頭脳が必要です。その解釈を人間は必ず文字言語、言葉で行うしかありませんから、すなわち言葉を使う技術の習熟、熟練、進化は必ず必要です。


統合失調症を招く動画学習

今世界中で起こっている民主主義や国際協調に関する対立は、当然とても「複雑な事情や経緯が背景にある事実」です。ところがその「複雑な事実」を「単純な事実」に置き換えて人々をリードするリーダーが支持を集めています。そしてその傾向は政治世界だけでなく、我々のごく身近なコミュニティや人間関係の中にも入り込んできています。

「単純系」と「複雑系」の対立とでも言えばいいでしょうか。

思考の単純化。すなわち情報を統合ができない、動物返りした人間を増殖させる危険性を秘めているのが、「動画による学習」です。

かつてヒトラーが、映画によるプロパガンダで人々を洗脳したことを思い出します。


「言葉の復権」

人間は動物ですが、動物であると同時に人間です。

そのOS・言葉は人間にいちばん大切なものです。


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