- 名古屋WEB動画制作所 管理人 神野富三
デザインが生まれない時代
デザインなのかアートなのか 「デザインを評価する」ということはどういうことでしょう。
よく「デザインとアートはどう違うのか?」という問いがありますが、ひとつ言えることはアートは必ずしも美しくある必要はないけれど、デザインはどんなに奇抜であれ「美しいか?」という評価基準が(それがすべてではないにせよ)適用されます。
モードと定型美
デザインには「オリジナリティ」や「新しさ」というモードな面と
同時に美の「黄金律」や「定型美」といったコンサバティブな面があります。
また「モード」には流行という意味もあれば、流行の先を行っている、という意味もあります。
判定は専門家の領域?
したがってどちらにせよ、人がデザインをジャッジするには、モード的な面では今の流行だけでなく過去の流行をすべて把握していなければならず、その時々の社会背景やそのデザインを支持した人たちのマインドも体系的に蓄積していて、同時にコンサバティブな「美」に関するアカデミックな知識、経験に裏付けされた審美眼(センス)を持っている必要があります。
昨今、様々な公的デザインコンペが一般投票制で行われることに、デザインの専門家も必ずこのことを問題にします。つまり経験や学識の無い人の判断は、必ずしもデザインの正しい評価とは言えないということです。
異論があるでしょう。
「そのデザインは誰のためのものなのだ?」
「私たちのためのデザインは私たちが決める!」
こうした論議で忘れられていることがあります。
たしかにそのデザインワークが B to C(デザイナー to 消費者)で行われる場合は、デザインはCの意向で決定して問題ありません。
しかし企業活動や商業活動におけるデザインワーク(五輪マークなども含め)は B to B to C (デザイナー to 企業 to 消費者)であることを忘れてはいけません。
デザイナーは相手企業のビジネスソリューションのためにプレゼンしているのであって、消費者に対してではありません。
B(デザイナー)とB(企業)は双方とも事業背景や目的について詳細に情報を共有していますが、Cにそれらの情報が提供されることはありません。
提供されたとしても、その膨大な情報を読み理解しようする人はいないでしょう。
最終的に決定したデザインを運用する責任者はその企業なのですから、そのジャッジはその企業の専管事項であるべきで、なんの責任も持たない消費者に転嫁することこそが無責任ではないでしょうか。
デザインが喪われてきた
グラフィックデザインや服飾デザイン、プロダクツデザインにとどまらず、音楽や写真、映像(動画)にも、その基礎部分にはデザインがあります。
映像制作にとってもデザインは、クリエイティブの基本要素です。
こうしたB to B to Cのビジネスで扱われるデザイン決定のジャッジを始めからCに委ねることは、Bのビジネスに主体性や主張がない、大衆迎合、俗っぽくて「モード」でもない、つまりはデザインとしての要件を備えていないことと言えます。
どうか企業は、自身らの知識と経験、センスに自信を持ってジャッジしてください。Cの声を聞いてデザインをジャッジするなんて情けないです。
例えば昨今、日本の車のデザインに魅力がないのはこうしたことの表れかもしれません。
大企業は新しいプロダクツを世に出すとき、あらかじめエビデンスを求める傾向があります。
エビデンスがある=過去に例がある。今欲しいという人がいる。
この時点でデザインは死んでいますよね。まねごと、あるいはすぐに陳腐化・・・。
でもデザインの、この流れは変わらないようです。
ニーズからウォンツへ、と言われた時代がありましたが、いまはまたニーズの時代に戻ってしまったのでしょうか?
