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  • 株式会社映像設計 プロデューサー 神野富三

謀る動画 〜欺かれる人々〜

Updated: Dec 29, 2020


やってはいけないこと

ずいぶん昔になりますが「ブロードキャスト・ニュース」(1987年・米国)という映画がありました。この映画には映像制作マンなら肝に命じておきたいエピソードが描かれています。


熾烈な出世競争に明け暮れる、ニュース番組制作の裏側を舞台にしているこのドラマ。インタビュアー(男)が犯罪被害者の悲しみに共感して涙を流す。その ワンカットが視聴者の感動を呼び、男は出世する・・・。だが番組のアンカーウーマン(男と親しい関係)は、そのインタビュー取材が1台のカメラで行われた ことを知り、男の人間性に失望する・・・。涙のワンカットはインタビュー映像に〝インサート〟編集されていたのだ・・・。


 もうお気づきだと思いますが、涙を流す男の顔は、取材後に撮った「やらせ」(自分の顔だから「やり」か?)だったことに、女は男の不誠実さを見て取ったのです。



 

リテラシー能力

ところで、最近のネット上では「感動の動画に賞賛の嵐!」「あの感動は実はつくり話だった!」なんてことが頻繁に繰り返されています。映像の裏側を知っ ている我々から見ると、これだけメディアリテラシーが向上している社会で、いまだに映像に騙されてしまう人が大勢いることは驚きであると同時に、我々はこ のことを再認識するべきだと思います。
 

編集されて生む映像

極言すれば、映像はカメラで切り取った瞬間から「事実の一部」としてパーツになり、編集の過程で「再構成」することで、「事実に近いノンフクション」に もなるし「事実のフリしたフィクション」にもなります。映像制作という仕事はそれを意図的に制御する、そういう仕事です。


いまネット動画の世界では「事実(の一部)を利用したエンターテイメント」というジャンルが「感動する動画」として人気を集めています。


視聴者の皆さん、こうした動画をノンフクション、ドキュメンタリーとして感動してしまっていませんか?もしかしたら、その感動はまったく別な場所から切り取ってきた感動かも知れませんヨ。


フィクションとノンフィクション

思い起こしてみると、私たちは映像を視聴する際に、予めないしは視聴し始めてしばらくの間に、その映像がフィクションなのかノンフィクションなのか、ド キュメンタリーなのかエンターテイメントなのか、はたまた広告なのかPRなのか等を分類定義します。人はエンターテイメントやフィクションという定義をし てしまえば、虚構の映像を許容しますが、ノンフィクション、ドキュメンタリーと定義して視る映像に嘘が混入しているとは考えません。


人はノンフィクションだと思って感動したことが裏切られると腹が立ちますが、はじめからエンターテイメントと解っていれば腹も立ちません。ただ、事実だと思ったからこそ感動したわけですから、まんまと製作者の意図に嵌った、謀られたわけです。


 なお、広告についての視聴スタンスの定義は複雑で曖昧なので、視聴者が何を許して何を許さないかは様々な条件が絡み合います。

事実を再構成(編集)する

我々にとって、どこまでが誠実でどこからが不誠実なのか・・・その境界線は毎回異なる条件が複雑に入り組んでくるため、いつもふらついているのですが、結局のところその判断は、都度作り手の人間性に負うのではないかと僕は思っています。


いまの時代、編集で涙のワンカットをインサートすることを咎める人は少なくなったような気がします。ニュースであってもドキュメンタリーであっても、視聴者は「感動を求めている」ことが前提になっているようです。

裏切られたと感じる視聴者

一方で視聴者が感じる「裏切り」への憎悪は増幅しているようです。感動というのは心を温めるエネルギーであるだけに、偽物を受け入れてしまった自分を許せない、さらには自分を欺いた映像を憎むようになるかも知れません。


ヒトラーの時代がそうであったように、映像は人の心に根深いダメージを加える、凶器としての一面を持っていることを忘れてはいけません。

 僕は冒頭の映画の主人公の女性がそうだったように、視聴者の心を欺く撮影、編集をしないことは、映像制作人のモラルとして大切にしていきたいと思っています。


ただ、視聴者をいかに引き込むかが僕らの本領ですので、映像制作という仕事の本質は「人を幸せにしつつ、どう欺くか」であることも告白しないと、やはり視聴者を謀ることになります。


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