- 株式会社映像設計 プロデューサー 神野富三
株式会社映像設計、代表プロデューサーが生きてきた時代(その1・1980-2003)
Updated: Feb 13, 2020
自己紹介
大学生時代(南山大学経営学部)、学生時代からラジオ局採用のAD兼ミキサーとしてアルバイトと同時に、制作会社にも籍をおき、ラジオ番組やテレビ番組の構成、台本を執筆 。
時にはディレクターとして番組を録っていた。
ちなみにクラブ活動は「軽音楽部」。と言ってもバンドの寄り集まり集団。バンド名は「ロックイン・ポップス」。担当はエレクトリックベース。よくある話だが、ベースマンは大概バンマスだ。
24歳で結婚
ラジオでは食えないので、結婚したくて映像業界に転身 ・当初はブライダルビデオばかりだったがバブルの波に乗ってCMや番組を作る制作会社に成長。JR東海のCMやトヨタ、リゾートホテルの映像などを手がけた。
ただし私の仕事は営業と同時に制作進行、すなわち段取り・雑用係。
10年後
34 歳の頃、自分の企画立案、シナリオライティングで地方自治体などの映像の企画コンペに 3 連勝 。
考えてみれば、学生時代にはアルバイトでシナリオ書いていたので、書くことは好きだったけれど、悪筆のため自分の下手な字を見るのがいやだった。けれど、ワープロの登場でこれを克服できたことが大きいかも。
さらに地元優良企業・東邦ガスの広報部に飛び込み営業して、見事「社内広報ビデオ(毎月制作)」を従前業者から奪取に成功(その後、独立後も含め25年継続)。
バブル崩壊、独立起業(1997年)
勤めていた制作会社がバブル崩壊と共に経営が不安定になったため、独立を決意。当初フリーランスを目指したが、事情があり会社を設立(37 歳) ・設立費用に知り合いから借りた 500 万円も2、3ヶ月で返済してしまい、 その後 10 年間くらいは何もしないでも経営できたのだ。 つづく
「株式会社映像設計、代表プロデューサーが生きてきた時代(その2・2004-2010)」