Tomizo Jinno
映像メッセージが犯す単純化という罪
事実は切り取られる
映像はカメラで収録するその時点ですでに、360度空間を「ファインダー」で切りとり、さらに「時間」を切り取り、そこにあった事実を歪曲しています。
そうして収録された映像はさらに、異なる空間、異なる時間をつなぎあわせて、新たな事実として創作されます。それが映像作品というものの本質であり、宿命です。だから、映像が、ある場所のある時点に有った事実をそのまま伝えていると思ったら大間違いであることは、改めてお伝えしておきます。
テレビ番組のニュース制作のスタッフであれば、こうしたことは決して作為として行っているつもりは少なく、可能な限り事実をありのまま伝えたいと思って編集しているに違いありません。でも、正直に告白すれば、我々B2B映像の制作者は、事実を改変して、より強力なメッセージをもつ事実に再生すること、それこそが仕事の本質です。
より短く、端的に
映像に限らず、こうした「事実を人に伝える」というコミュニケーション、インフォメーション、パブリッシュ行為は、事実をすべてつぶさに見せる、聞かせるという猶予は通常与えられず、どんなときも「わかりやすく」「端的」であることを強いられます、このことは、どのようなレベルのコミュニケーションでも共通です。国家であろうと家庭であろうと、より単純に伝えないと、ものごとは伝わらないというジレンマです。
映像は単純化そのもの
本質的に単純化の賜物である「映像」は、その映像の渦中にある人たちにとっては、かなり物足りない、あるいは時には、ワリを食ってフラストレーションを貯めてしまうに違いありません。視聴者の誰もが高レベルで物事を理解、分析し判断できるわけではない以上、どうしても映像はそういう作り方になります。ワリを食ってしまう方は、どうか心を拡くしてお許しいただくしかありません。
「単純化」は罪深い
パンデミックという緊急事態時には、特に拡く行われることになります。社会のすべての人が十分な情報量と理解力、分析力、判断力を持っているわけではないので、単純化の度合いは、一般の人々の理解力、判断力の平均値以下に設定するしかありません。
そうすると、どういうことが起こるかというと、本来制約を受ける必要の無い人々まで、単純化によって同じ枠に嵌められ、ワリを食うことになります。
