Tomizo Jinno
プロが制作する映像(動画)にアマチュアを参加させるということ(前篇)
ボランティア意識
自分がボランティアを請け負うならば、請け負う作業の範囲を意識的にも無意識にも線引きします。対価なしに時間と労力、ときに能力を提供するわけですから、嫌なことまでしたくはありません。
よく脳裏に浮かぶのは・・・
【意識的】
・ひとに命令されたくない
・生理的に嫌な作業はしたくない
【無意識】
・感謝される仕事をしたい
・嫌になったら帰りたい
と思っていると思います。
無責任なものです。
さらに・・・
「自分に意義あることでなければボランティアはしない」
僕の場合は、これが一番重要です。
「自分の能力を活かせる」事業であること。
これでなければボランティアをする意味がないとさえ思います。
こんな偉そうなやつをボランティアに入れた大変です。実際「もっとイージーにやれば?」と言われますが、イージー=自分の仕事に誇りをもたない。絶対にできない性格です。
駒になるスタッフ・リーダーになるスタッフ
災害復興などに参画するボランティの大半は、来る日も来る日も瓦礫の片付けで、リーダーの指揮下で黙々と働き、誰の目に止まらずに帰っていく・・・。これが嫌ならこうしたボランティアには参加しないほうがいいですね。でも、これも考えようによっては「やりがい」と考えることもできますから、駒になると言っても、それはそれで受け入れられます。
僕がひとに命令されたくないというのは、自分がその作業のリーダーとして招かれたのに、他にもリーダーが居て、請われた自分の能力が発揮できない、自分が参画する意味がない・・・という場合があるからです。命令を聞かないスタッフがいることはボランティア団体には不適ですので、さっさと抜けるのが適切です。
映像制作現場にボランティア(に近い存在)
前説が長くなりましたが、ビジネスとして映像を制作している現場に、素人を参画させるのは、このボランティア意識を持った人を、メンバーに入れるということです。素人であってもギャラは支払うかも知れませんが、そもそもそのギャラは何の対価かというと、プロフェッションへの対価ではなく、あくまで時間労働対価です。ある程度の能力に対して支払う対価であったとしても、本人にプロ意識が無い以上、決して能力への対価にはなりません。働くスタンスはボランティア意識に近いものです。
(つづく)
